A「復讐をしてもあなたの愛する人は生き返らない」
B「何を言う生き返ったのは俺自身だ」
ってのがある
Bにあたるセリフすら描けないでAで留まる表現者は筆を折って自分の脳天に突き刺してろと言いたい
インタビューをしたある女の子が、「中学の頃、自分の靴ひもがほどけたときに、一緒に歩いていた子たちが足を止めてくれなかった。でも、他の子の靴ひもがほどけたときはみんながぴたっと止まって待っていた。」という経験を話してくれました。彼女は別にいじめられているわけでもないし、そんな認識もないんですけど、「見下されている」とはその当時感じていたようです。
スクールカーストってそういうことだよ、とぼくは思いました。この話はとても些細なことのように聞こえます。でも、中学の頃の話のはずなのに、彼女はそれを今でも思い出して苦しくなるそうです。自尊感情に影響しているといえます。
そんな小さなことが積み重なって来たときに、確固たる上下の関係ができて、「コイツにはなにをしても許される」と、どんどん行為がエスカレートしていく可能性があるのかもしれません。
かつて、坂本龍一は反体制が売りだった。新宿高校でバリケードを組み、全共闘のデモで警官と取っ組み合い、騒乱の景色をthatness and therenessと歌った。
それが今や、反原発という旗印のもと、坂本は権威となってしまった。かつて彼自身が唾棄すべきとした権力の側に成り下がったのである。
極めつけは「たかが電気」発言である。「電気」と「いのち」などという原理的に比較不可能な概念を対置する、その思考回路は正常か? 「経済」とは本来、経世済民。富を循環させて民の苦しみを救うことに本義がある。その「経済」を蔑ろにする社会が「いのち」を守れるのか? これを妄言と呼ばずなんと言おう。そもそも言葉の人ではない坂本にスピーチをさせた時点で間違っていた。「いのち」なんていうダサい言葉、村上龍なら選ばなかっただろう。
まあ別に、反原発を標榜するのは結構なことだ。なにか嫌なことに反対するのは人間の権利だし、声を上げるのも正当な行いだ。原発は資本主義の経済合理性にあわないから自然淘汰されるべきだし、STOP ROKKASHOが叫んだ再処理問題の孕む欺瞞は甚だしい。だから坂本のやってることに一定の合理性はある。
しかし張り上げた声の内容は、社会からの厳しい審判を受けるべきだ。池田信夫にフリーライダーと謗られようと、山形浩生に鋭く罵倒されようと、冷静な坂本ファンを失おうと、それらは当然の報いである。これまで世間からの批判をだいたいスルーして頬かむりしてきた坂本だが、「たかが電気」発言への反感には恐怖を覚えたのだろう。せめて撤回すればいいものを、悔しいからなんとか拙い言葉で反論してしまい、それがさっぱり見当はずれで老醜を晒してしまった。